- 2017.04.01
~想いを紡ぐ~
- 翔月庵 加古川
本ケースの始まりは平成29年2月14日。
「昨夜から父が自宅を飛び出し、体中傷だらけで今日の昼に警察に保護された。家族が四六時中ついている事も出来ないので、すぐにでも預かって欲しい」と、切羽詰った様子のご長男からの相談。
聞取り内容を整理し、相談受理からの経過を振り返ってみる。
【プロフィール(入居当時)】
・ご主人(夫):昭和3年生まれ。要支援1。
瓦職人として生計を立ててきた自宅にて妻と二人暮らし。
自転車を使って買い物等にも出掛けていたが、平成27年頃より外出しては家に戻れなくなる事が続き、市の認知症徘徊ネットワークへ登録をしていた。
奥様に介護が必要となってきた平成28年頃からは不要な外出も減り、奥様の介護へ熱心に従事しながら精神的にも穏やかな生活をしていた。
・奥様(妻):昭和5年生まれ。要支援1。
平成28年11月頃より下肢筋力が衰え、平成29年2月に入ってからは歩く事すら難しくなり、終日を居間のコタツで過ごす事が増えていた。
【相談までの経過】
同市内に住むご長男夫婦が月に数回様子をうかがいに訪れ、「俺の目の黒いうちは俺が妻の面倒をみるんや」と仰るご主人と、奥様二人の生活を見守っていた。
平成29年2月13日午前、ご夫婦を訪れたご長男夫婦が、居間で倒れて動けなくなっているお母様を発見。何とか家族で受診に連れて行こうとしたものの、下肢筋力の衰えに加えて下肢全体に床ずれが生じており、担ぐ事も抱える事も出来ずお母様を動かせなかったため119番要請。救急車にて病院搬送となった。
奥様が搬送先の病院に入院となったその日の午後、自宅に居たはずのご主人の所在が不明となった。ご長男夫婦に警察から保護の連絡が入ったのは翌14日の午後。身柄を引き取りに行った際、全身傷だらけとなり疲弊し切っていたお父様。それでもお母様の容体を案じて繰り返し入院先を問い質し、今は治療中で会えないと何度説明しても、入院先も分からないまま家から飛び出そうとするお父様の姿に、「父はここまで正常な判断が出来なくなっていたのか…」とご長男は愕然となったそうだ。
今にも飛び出そうとする父をなだめる事と今後の対応に困り果てたご長男は、認知症徘徊ネットワークの登録などで関わりのあった地域包括支援センターへ助けを求めた。
そこで翔月庵加古川を紹介され、冒頭の相談へと繋がる。
私たち翔月庵加古川としては、困窮度の大きさから緊急受入れを即時決定。
【入所…そして夫婦生活の再開】
相談翌日の平成29年2月15日、ご長男夫婦に連れられお父様の入所。
入所当初、お父様は環境の変化とお母様への心配で精神的な不安定が続き、場所も分からないまま病院へ行こうとする事や翔月庵を奥様の入院先と勘違いする事が毎日のようにみられた。その度に「あいつの傍におってやらんとアカンねん」と涙ぐまれるご主人の姿にスタッフも心を痛める日々だった。
平成29年2月27日、奥様の退院が同年3月23日に決定。
「両親がお互いを想い合う間は二人一緒の生活を続けさせてやりたい」とのご長男のご意向を受け、退院に合わせての2名同室入居も決定となる。
ご長男に連れられお母さまの面会に行かれたお父様は「退院が決まって良かった」と満面の笑みを浮かべ、その日から「あいつがここに来るまでに部屋を綺麗にせなアカンなぁ」と目を輝かせながら居室の整理に日々励まれるようになった。
そして同年3月23日。車椅子使用となったもののお元気になられた奥様と、場所は変われども”これまでと変わらない夫婦二人での生活”を取り戻して頂ける事となった。…ただこの後、私たちはこれまで大きな思い違いをしていた事を知らされた。それは、これまで豪気な物言いも数多くあったお父様が、実のところは奥様のカカア天下で、見事に尻に敷かれているという事実であった。
それはさておき。その日以来今日まで、お二人は常にご夫婦で寄り添い合いながら、にこやかな表情に富んだ翔月庵の日々を過ごして下さっている。当時の事をご長男へ改めてお聞きすると「あの時は大変だった。ぞっとした。どこでもいいから空いているところはないのかと駆け込んで、翔月庵を紹介してもらえなかったらどうなっていたか…。すぐに対応してくれて感謝しています」とのお言葉を頂いた。
本ケースに限らず、翔月庵へ相談に来られる方は恐らくみなさま、親子・夫婦ゆえの不安、葛藤、絆、愛情といった、強さや深さや大きさ含めて実に様々な想いを抱えておられる事と日々感じている。
全てに応え、叶える事は出来ないかも知れない。けれど、せめてその一つ一つの想いを大切にし、寄り添った対応が出来るようなチームであり続けたい。